この国は、検察・警察・裁判所が一体となって国民を虐殺してきたという狂気の歴史をまだ払拭し切れていない。そんな中で、共謀罪が成立し、来るべき戦時体制の中でどのように濫用されるか、考えるだに恐ろしい。
以下は、
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/TIANIJIHO.html
より。
治安維持法は、世界最大の悪法といわれ、“民主主義死刑法”とまで極言される程悪名高い法律であった。同法は、1925(大正14)年4月22日に共産主義、および無政府主義運動における特定の行為を取り締まる目的で公布され、同年5月12日施行された法律(大14法第46号)で、それは、大正デモクラシーの展開の一つの結実として制定された(男性)普通選挙法(大14法第47号)と引きかえに制定された、いわゆる『飴と鞭の政策』の表現であった--
特に、治安維持法の適用について特筆すべきことは、当局の無制限な拡大・類推解釈によって、共産主義者・無政府主義者のみならず社会民主主義者、自由主義者、平和主義者はいうに及ばず、容共者でなくとも、多少なりとも反体制、反国体的思想を持つ者や運動をする者、単なる研究者にいたるまで根こそぎ逮捕・検挙し、いわゆる警察間の“たらい廻し”により裁判にもかけず、無制限に拘留した事実と、侵略戦争遂行の過程において、これを積極的に運用し、当局と一体となってすべての自由を否認した裁判所(裁判官)の役割である。
また、こうした治安維持法の運用によって国民の間に恐怖感が生成されたが、ファシズムと一体となった権力の恐怖政治は、国民をして『自己規制』に向かわせるのであった。治安維持法の怖さの大きな部分は、この国民の自己規制であったといっても決して過言ではないのである。
1945(昭和20)年10月7日付『朝日新聞』は、「血に彩られた゛特高゛の足跡--『文化も人権も蹂躪』--言語に絶する拷問」と題して次のように報じた(『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20年下半期』196頁)。
「特高警察の歴史は血に彩られた日本社会運動の歴史である。この秘密警察制度は初め社会思想取締りに主眼を置いて全国に網を張りめぐらしたが、昭和7年6月27日、従来警視庁総監官房内にあつた外事、特高、労働、内鮮の各課が併合されて特高部として独立するに及んでその網は一層強化された、この警察制度の用いた武器は今次撤廃された治安維持法その他の法令であるが、実際の運営は、しばしば法規を越えて行はれた、取調べにあたる警官は言語に絶する拷問を用ひ、遂に死に至らしめた例も少くない、警察留置中斃れた左翼の闘士岩田義道氏の歯を食ひしばつたデスマスクは特高警察の一面を語る姿である、彼らが一度狙ひを定めれば事実の有無を問はず留置され、警察から警察へといわゆる盥回しが行はれた、共産主義者が受刑中歯を治療費用を支払つた友人までを検挙、裁判に附した事実は、如何にこの制度が実際常識の範囲を越えて活動していたかを物語るものである」。
さらに1945(昭和20)年10月16日付『朝日新聞』は、プロレタリア作家小林多喜二の拷問死について、小林の友人江口渙の
「(小林の)死体をみた瞬間この恨みは一生涯忘れられぬ、死ぬまでにはいつか必ず復讐してやろうと思つた、あゝいふ現実をみては最早階級闘争などどいつた理屈を抜きにして個人的なはげしい憎悪にかはる自分の気持ちをどうすることもできなかつた」
との前置から、次のような談話を掲載した(『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20年下半期』214頁)。
「小林が捕まつたのは昭和8年2月19日で……小林はすでに1年も前から地下に潜つてゐて地下から中央公論に『党生活者』という創作を発表し、しかもその内容が捜査に躍起となつてゐた特高ののろまぶりを嘲笑するものであつたし、また彼の最大傑作といはれた小説『1928年3月15日』は拷問暴露小説であつたから官憲が小林を憎むこと一方ならず、それだけに検挙後の拷問が人一倍はげしかつたことが容易に想像された。
小林らを取調べ拷問したのは中川警視庁特高係長と築地署特高主任(氏名失念)、警視庁特高係の須田巡査部長、山口巡査などで、2年ほどして出所してきた今村に話によると、彼らは小林にいきなり『お前は共産党員だろう』とたたみかけ、小林が『そうではない』と昂然と答えると『何、この野郎、自白しなければするやうに締めてやるから』といふので、小林が今村を顧みて『かうなれば最後だ、お互いしつかりやろうぜ』と励ました、これを聞いた彼らは一斉に桜のステッキや野球のバットで小林を殴りつけたり、金具が裏についた靴で体を滅茶苦茶にふみにじつたりした、そして小林が気絶すると留置場へかつぎ込んで捨てて行つた、
間もなく小林は寒気で意識を取戻し『俺はとても苦しくてこれ以上生きてはいられぬ、死んだら母にそのことを伝えてくれ』と遺言し『便所へ行きたい』と訴えたさうである、そこで留置人がみんなで便所までかついで行つたが、肛門と尿道から血だけが出て便所が真赤になつた、そして連れ帰つて十分もすると死んだといふことであつた、血の便が出たのは靴のまゝでふみにじられて明らかに腸出血をしたからだ、引渡された死体は拷問虐殺の証拠湮滅のためその時は綺麗に血が洗はれてあり、築地署の説明は心臓麻痺で急死したといふことであつた、
寝台車で阿佐ヶ谷の自宅へ連れて帰り、安田博士(渋谷の開業医)指揮で同志が立会つて死体の検査をしたが、驚くばかりに蒼ざめた顔は烈しい苦痛のあとを残して筋肉の凹凸がひどいため到底平素の小林とは思えぬほどであつた、殊に頬がげつそりとこけてひどく眼が窪んでゐる、そして左のこめかみには一銭銅貨大の打撲傷があり、それを中心に数箇所の傷痕があつた、首にはぐるりと一まき深く細引の跡がくい込んでゐた、余程の力で締めたらしく、くつきりと細い溝ができ、皮下出血が赤い無残な線を引いゐた、左右の手首にも同様円く縄のあとがくひ込み血が生々しくにじんでいゐた、帯を解き着物をひろげてズボン下を脱がせた時、余りのむごたらさに思わず顔をそむけた安田博士は、同志一同に『これですこれです』と沈痛な口調で告げた。」
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『陣頭にたおれたる小林の屍骸を受取る』
江口渙
二月二十一日の夕方だった。
「小林多喜二氏。築地署で急死す」という二号二段ぬきの標題をふと夕刊で見た瞬間「あっ、小林がやられた」と思わず口の中で叫ぶとそのままふかく呼吸をのんだ。
逮捕――急死――急死――急死。それが何を意味するかは、もはや聞かなくとも明かだった、私はもうじっとしてはいられなかった。とにかく飯を食って身支度をして出懸けようと思っていると大宅壮一からの電話で使が来た、阿佐ヶ谷へ廻って小林のお母さんを伴れて直ぐ築地署へ来いというのだ。
私は直ぐ様走るように家を出た。だが、どうしたのか阿佐ヶ谷の家は真暗で誰もいない、唯、門の前に親戚らしい老人が一人うろうろしているだけだ、前の家で聞くとお母さんは何時出懸けたか知らないというのだ、弟の三吾もいない。困ってしばらく立っていると小林の小学校以来の友人だという野口君という人がかけて来た。そこで二人は阿佐ヶ谷駅へとってかえして築地へ向った。
私達は夕刊の間違いで築地病院へ飛び込んだために築地署へついたのは八時すぎだった。受付に名刺を出していると大宅壮一君が二階からアタフタと降りて来た。
「お母さんがもう来ているよ。親戚の人も、その外大勢二階にいる」
「そうか。もう来ているか」
私は二階へかけ上った。高等室の前の廊下は新聞記者と写真班とで一杯だった。佐々木孝丸がいる。安田徳太郎博士がいる。青柳、三浦の両弁護士がいる。だが、みんなが何度名刺を出しても高等室の扉は固く閉されて、どうしてもお母さんに会わさない。
九時になった。お母さんが親戚の小林市司氏を先に立て刑事に囲まれて出て来た。小柄ではあるが肩つきのがっちりした六十余歳のお母さんは、ネンネコで背中へ孫をおびって田舎者らしい素朴な顔を心配そうに俯向けながら、黙々と足を運ぶ。みんなその後へぞろぞろついて階段を降り、裏門から往来へ出た。そして屍骸の置いてある前田医院へと向った。
「道が大分悪いようですからどうぞお年よりはお気をつけ下さい」
小林を逮捕し糾問した責任者水谷主任の声が、不自然きわまるものやさしさで闇の中にひびく。だがお母さんは一語も答えない。
やがて前田医院へつくと、ここでも我々はお母さん達から切りはなされ、往来へ閉め出されてしまった。
夕刊を見て真先きにこの病院へ飛び込んだのは左翼劇場の原泉子だった。だが、彼女は張り込んでいたスパイに忽ち腕をねじ上げられまさに検束されようとした。そこへ新聞社からの電話で変事を知った大宅壮一と貴司山治とがかけつけて来た。そして危く彼女を救い出して築地小劇場へ引き揚げると、更めて死体引取りの対策を立てた。お母さん、弟、医師、弁護士立会いの上で引き取ろうということになって弁護士団と、安田博士と、私へと電話をかけた。その上、もしお母さんが一人先へ来たら往来でつかまえようということになって、署の周囲へピケを立てた。
だが、お母さんが思いもよらない孫(小林の姉さんの子)を負って来たことと、ピケが顔を知らなかったこととで、この計画は不成功に終った、そして同志達とお母さんとは四時間以上も空しく切りはなされてしまったのだ。
九時四十分。ついに寝台自動車が来た。そして一面に白布で包まれた小林の遺骸が、病院から担架で運び出されると、そのまま寝台車へ移された。お母さんと親戚の人とが側へ乗った。
「悪くするとあの人達は警察側にまるめられて小林を我々から切りはなすために自宅へは帰らないで何処か知らない家へ持って行くかもしれない、後をつけろ」
藤川美代子、安田博士、染谷の五人がとび乗った。
大型の寝台自動車は大東京の二月の夜の光と闇とを突き破って西へ西へと走る。我々は書き止めておいた自動車番号を見つめながら呼吸づまるような緊張のうちに後を追う、二台の自動車は離れてはつき、ついては離れて銀座―日比谷―半蔵門―四谷見附―新宿。それから更に青梅街道を西武電車の線路に沿って城西へ飛んだ、がやがて阿佐ヶ谷駅の近処で途を間違えてぐるぐる廻った揚句、見覚えのある小林の家の露地の前で停った時には始めてほっと安心した。
家には既に小林市司氏の奥さんや近親や友人達が待ち受けていた。そして担ぎ込まれた遺骸をみんなで六畳の座敷へ運んで、取り敢ず蒲団をしいて臥かせた。
それまで涙一滴こぼさず、殆ど物もいわなかったお母さんは、家へ帰った安心から、遺骸の枕元へ座るとそのまま、声を立てて泣き崩れた。やがて再び体を起すとしばらくの間、愛児の無残に変り果てた顔をなつかしそうに覗き込み、乱れた髪を撫でてやったり、やつれた頬をさすっていた。が、又々こみ上げて来る悲しみに耐えられなくなったためか、再び体をかがめると、こんどは冷くなった小林の首を両手で抱えて、静かに、だが、如何にもいたいたしく揺すり始めた。その様子は恰も小林がまだほんの子供であった時、この子供思いのお母さんが小林をこうして愛撫したであろうことを思わせるに十分な、とてもものやさしいものだった。
「ああ。いたましい。ああ。いたましい。いたましい。いたましい。心臓まひで死んだなんて嘘ばかりいって。あんなに泳ぎが上手だったのに。心臓の悪い者に、なんで泳ぎが上手にできるもんか。嘘だ。嘘だ。絞め殺したんだ。呼吸のできないようにして殺されたんだ。呼吸がつまって死んでゆくのがどんなに苦しかったろう。呼吸のつまるのが。……つまるのが……ああ。いたましい。いたましい。いたましい」
お母さんは尚も小林の首を抱えては揺すり、揺すっては抱えて、後から後からと湧き溢れる涙に咽喉を詰らせながら、生きている子供にものをいうように、遺骸に向って話しつづけた。
私は人間がこんなにも烈しい悲嘆と絶望とに打たれて苦悩するのを、生まれてかつて見たことがなかった。そしてそのあまりにもいたいたしい姿を、もはや一秒間も見ているにしのびなかった。
「お母さんをそっちの部屋へつれて行って下さい。これじゃ如何にも体にさわるから」
私はついにこういった。親戚の人も早速つれて行こうとした。だがお母さんは聞き入れない。矢張、枕元に座ったまま泣きつづけた。
安田博士の指揮の下に、死体の検査が始った。
驚くばかり青ざめた顔は、烈しい苦痛の痕を残して、筋肉の凹凸がけわしいために、到底平生の小林ではない。ことに頬がげっそりとこけて、ひどく眼がくぼんでいる。そして左のコメカミには、一銭銅貨大の打撲傷を中心に、五つ六つの傷痕がある。それがみんな皮下出血を赤黒くにじませている。「こいつを一つやられただけだって気絶するよ」と、その時誰かが叫んだ。
首には、ぐるりと一とまき、ふかく細引の跡が食い込んでいる。余程の力で絞めたらしくくっきりと細い溝が出来ている。そして溝になったところだけは青ざめた首の皮膚とはまるで違って矢張、皮下出血が赤黒い無惨な線を引いている。左右の手首にも、首と同様円く縄の痕が食い込んで血が生々しくにじんでいた。
だが、その場合、それ位のことは他の傷に較べると、謂わば大したものではなかった。更に帯をとき、着物をひろげて、ズボン下をぬがせた時、初めて小林の最大最悪の死因を発見した。我々は思わず「わッ」と声を放つと、そのまま一せいに顔をそむけた。
「これです、これです、矢張り岩田義道君と同じだ」
安田博士の声が沈痛に響いた。我々の眼が再び鋭く死体にそそがれた。
凄惨全身を被う赤黒い皮下出血だ!
何というむごたらしい有様であろう、毛糸の腹巻きに半ば覆われた下腹部から、左右の膝頭へかけて下腹といわずももといわず、尻といわず肌といわず、前も後も外も中も、まるで墨とべにがらとを一しょにまぜて塗り潰したような、何とも彼ともいえないほどの陰惨限りなき色で一面に覆われている。その上、余程多量の内出血があると見えて、ももの皮膚がぱっちりとヘチわれそうにふくらんでいる。そして赤黒い皮下出血は陰茎から睾丸にまでも及んでいる。
好く見ると赤黒く張り切った膝の上には、釘か錐を打込んだらしい穴の跡が、左右とも十五六ヶ所も残っている、そこだけは皮膚が釘の頭ぐらいの丸さだけ破れて、肉が下からジカに顔を見せている、それが丁度アテナ・インキそのままの青黒さだ。
「こうまでやられたんじゃ生命が奪われるのは当り前だ」
「だが、流石に小林だなあ、こんなにされるまで好くもガン張り通したねえ」
誰かがふかい溜息とともにいった。その時小林市司氏が始めて警察側の説明をつたえた。
「警察側のいうところでは、逮捕される時逃げようとしてひどく格闘しているうちに道路へ倒れた為めに、顔に少し傷が出来たのと、検束する時、縄をかけたので首と両手に少し傷があるし、体にいくらか死斑も出たようですが、これは心臓麻痺とは別に関係のないものですから御心配ないようにといってましたので私もうっかり向うのいうことを信じて、ろくろく体を調べもしないで受取ってきましたが、まさか、まさか、まさか、こんなにひどくなっているとは思いませんでした。こんなことだと知ったら如何に何でもそんまま受取って来なかったんです。実に残念で、残念で……でもどうしてこうまでひどくなったんでしょう」
「四時間もぶっつづけに拷問されれば、誰だってこうなりますよ」誰かが又復鋭く叫んだ。
「でも、着物はどうもなってませんが」
「無論、証拠を残さないために着物を脱がして、シャツとズボン下一つにしておいて、椅子にくくりつけたり、天井から細引で釣して腰から下を目当に、竹刀でなぐりつけたのです。おまけに首まで絞めつけた。その証拠に猿股がなくなっているし、ズボン下の寸法がとても短いじゃないですか。もとの奴は血だらけになったので、何処かへ捨てて代りを無理にはかせたんです」
「成程。そうですな。今まで私は拷問というようなことは、みな左翼の宣伝だとばかり思ってましたが、こうして現実にぶつかってみると、始めてほんとうのことが解りました。実に怖しいことをするもんですな」
市司氏の眼から涙がはらはらとこぼれた。そのうちに玄関の襖を開けて、若い女性が三人、いかにも悲しそうな様子をして入って来た。そして遺骸の横にずらりと座るが早いか、三人とも声といっしょに袂を顔にあてて泣き崩れた。
十二時近くになって作家同盟の同志を始めプロット、ヤップ、弁護士団、サークル員などが後から後からと駈けつけて来た。立野信之、本庄陸男、山田清三郎、川口浩、上野壮夫、淀野隆三、鹿治亘、千田是也、木村好子、後藤いく子、原泉子その他三十人ばかりが六畳にぎっしりつまった。一時近くなってヤップの国木田がデス・マスクをとった。それがすむと岡本唐貴が油絵で死顔を写し取った。三四人の一が入れ代り立ち代り写真を撮った。変わり果てた死顔の写真や、惨憺たる傷痕の写真やお通夜の写真が何枚もとられた。
やがてみんな協議した結果、告別式は二十三日午後一時から三時までとすること、別に日を更めて大衆的な葬儀を行うことと、告別式までの全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸ということにきまって、動員グループを組織し、それぞれ部署についた頃には、慌しい通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた。
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